佐野常羽(さの つねは)先生から私の祖父「山領 喬」(明治11年生~昭和10年没)にあてて昭和9年6月に届いたのお手紙実物の写しです。
筆で和紙に書いた直筆です。
内容を読むと、佐野常羽の養子である佐野常光(一条実輝公爵の次男)と皇族(竹田宮恒久王の第1王女)の禮子(あやこ)様との結婚に際して、私の祖父が佐野常羽に御祝いを贈ったことに対するお礼の手紙であることがわかります。
常光と禮子の結婚が記録によると昭和9年3月とのことなのでつじつまがあうようです。
私の家は、日本赤十字社の創設者である佐野常民と親戚関係であることは幼少の頃から母に聞かされていました。佐野常民の妻、駒子(山領圓左衛門眞武の娘)が幼いときに当家から佐野家に養女に入り佐野駒子となったことにあるそうですが、それよりも前に佐野家の医者が当家の養子となり家を継いだと聞かされていました。記録によると1756年に佐賀藩医佐野常置仲庵の三男に生まれ、山領千左衛門言利の養子に入った主馬(山領梅山)という人が佐野常民の大叔父にあたるそうです。よって、いまでも自宅には佐野常民に関する書や写真が現存しています。
佐野常民の子である佐野常羽はボーイスカウト運動に大変熱心な方でしたが、どちらかというと指導者がどうあるべきかという指導者道を導いてきた方です。
私は今、指導者訓練コースの所長を務めるとき参加者に佐野常羽の話をさせて頂きます。
道心門、弥栄、清規三事などのことです。また、1925年にはじめて日本国内で開催した指導者訓練の話などをさせて頂きます。
佐野常羽は昭和31年に86歳で亡くなりましたが、私の祖父は昭和10年に57歳の若さで亡くなっています。佐野常羽からの手紙を受け取った翌年ですね。そして、常民や常羽の話は祖母が私の母に伝え、私の母は私が9歳の時にボーイスカウト福岡第4団ににいれてくれました。
佐野常羽からの手紙は和紙の封筒に入っていました
佐野常羽から届いたはがき(国際郵便)
佐野常羽から届いた更に古いはがきです。
44-9-24という消印は日本に届いた明治の年月日と思われます。私の祖父あてにシベリア鉄道の客車の中で書いたと記されています。
差出人の住所はドイツのベルリンになっているので佐野常羽が退役前の時代のものと考えられます。差出人名に書かれている「Graf」はドイツ語で伯爵という意味のようなので佐野伯爵と訳すようです。今になってシベリア鉄道について調べてみましたが、当時からヨーロッパ各地やイギリスまでも飛行機ではなく鉄道と船で日本から行けたということを知りました。尚、記録によると佐野常羽は1911年~1914年(明治44年~47年)ドイツに住んでいたそうですので明治44年の消印は間違いないと考えられます。
※西伯利亜←シベリア・伯林←ベルリン
「シベリア鉄道の客車の中は退屈を覚え、本日鳥柱山をみていた。ベルリン到着まであと3日剰り」という手紙の内容のようです。鳥柱とは多くの鳥が同じ上昇気流に乗って空に浮かんでいるようすのことを呼ぶそうです。秋に南に渡っていく渡り鳥が鳥柱をつくるらしく、当時ウラジオストクからモスクワまで10日かかっていたシベリア鉄道の客車の中で退屈を覚えていたところ、今日はすばらしい鳥柱が見えたという感動の様子を手紙に書いたのだと私は想像しています。
明治44年にこのようなハガキがロシアから日本に届くという郵便のシステムにも驚きです。
※絵はがきの写真は「バイカル湖岸鉄道 No.2 Ст. Китайский разъездъ. (Ст. = станция) キタイスキー・ラズエズド駅」とのことです
佐野常羽から届いたはがき(国内郵便)
佐野常羽が日光金谷ホテルから差し出した絵はがきです。絵はがきには「山中湖氷上ノ自動車」と記されています。差し出された年代は不明ですが、ハガキの表面に「本年・・富士山・・・全国の指導者ノ訓練に当り・・・初度ノ経験ナがら~」と読み取れるので、ハガキ裏面の「八月廿八日」という記述から、1925年8月に山中湖畔で所長を務めた指導者訓練所を終えて、1925年8月28日に日光に温泉旅行に行った際に差し出されたものと考えられます。また、手紙の本文には「東京大雨の被害ナシ」との記述があったので調べてみると、1925年夏は記録的な大雨が中国大陸・朝鮮半島に複数発生して豪雨や洪水など大変な被害が出ていたようです。
佐野家から届いた年賀状
明治45年1月元旦 干支のねずみが箔押しされています。差出人は佐野常民の子で佐野常羽の弟である常砥、常尾、そして春子様の連名でした。
当家に残っている佐野駒子(佐野常民の妻・山領圓左衛門真武の娘)の生写真です。明治の有名な写真師:丸木利陽による撮影です。
佐野常民(佐野常羽の父・1823年~1902年)の写真は私が生まれる前から自宅に飾られていたようです。
↓当家に残っている佐野常民の生写真です。下の写真は当時の明治天皇をはじめとする著名人を撮影した写真師:名越源太郎(東京神田:神保館)による撮影です。
佐野常羽(さの つねは)
(1871年8月18日(明治4年7月3日) – 1956年(昭和31年)1月25日)
経歴
従2位動2等・元海軍少将・伯爵。日本のボーイスカウト運動における指導者道を確立した人。
日本赤十字杜を創設した佐野常民の三男として1871年 (明治4年)7月3日東京麹町に生まれる。「鉢の木」の話で知られる、佐野源左衛門常世の末裔である。
のち海軍兵学校に入学し、明治35年に家督を継ぎ伯爵となる。
東郷平八郎艦長のもとで砲術長、海軍高等通訳官、ドイツ大使館付武官、戦艦榛名艦長などを歴任。大使館付武官時代、しばしばロンドンに滞在しボーイスカウト運動を見聞する機会が多かった。
退役後、大正11年、栃木県佐野に唐沢義勇少年団 (後の唐沢ボーイスカウト) を結成以来スカウト運動に尽力するようになった。
大正13年の第2回世界ジャンボリーに参加し、その後ボーイスカウト国際会議、世界ジャンボリーに日本代表として参加した。
昭和6年には、ベーデンパウエルより、ボーイスカウトの最高栄誉章「シルバーウルフ」を贈られた。この「シルバーウルフ章」を贈られたのは、日本では昭和天皇と佐野常羽だけである。
日本のボーイスカウト運動においては、大正14年、指導者訓練所(のちの中央指導者実修所)を開設した功労がある。 これによって、日本におけるボーイスカウトの指導者道が確立された。昭和29年、日本連盟は「長老」の称号を贈り、翌年には、日本連盟の最高功労章である「きじ章」を贈った。
昭和31年1月25日、86歳で逝去した。
親族
妻は保科正益の次女・尚子。養子の佐野常光(つねみつ、1906年生)は一条実輝公爵の次男で旧名・実光。その妻 佐野禮子は竹田宮恒久王の第1王女。
弥栄
読みは「いやさか」。ボーイスカウト日本連盟、およびギルウェル指導者訓練所の祝声である。
世界各国のスカウトは自国語の祝声(Cheer、他者を祝賀、賞賛する際や、再会を約して別れる折などに唱和する掛け声のこと。一般に用いられる万歳のようなもの)を持ち、日本連盟は古語である「弥栄」を採用していた。
1924年(大正13年)、ギルウェル指導者訓練所の所長であったJ・S・ウィルソンから、その時入所していた13国の指導者全員に、各国のスカウト祝声を披露するようにとの命令があった。
このとき佐野は、「弥栄」を披露し、「ますます栄える(More Glorious)」という意味であることを説明したところ、ウィルソン所長は、「発声は日本のものが一番よい。そのうえ哲学が入っているのが良い」と賞賛し、以後、ギルウェル訓練所の祝声を「弥栄」とすることに定めた。
清規三事
佐野常羽の残した教えのひとつに「清規三事」がある。(読みは「しんきさんじ」、「ちんぎさんじ」、「せいきさんじ」など諸説ある。)それぞれの英訳も佐野が行ったものである。
- 実践躬行 (じっせんきゅうこう、Activity First)
- スカウト運動(スカウティング)は、自ら実行することが第一である。
- 精究教理 (せいきゅうきょうり、Evaluation Follows)
- 物事の実行には、その価値を評価し、反省し、そして理論を探求することが必要である。
- 道心堅固 (どうしんけんこ、Eternal Spirit)
- 実行・評価・反省を繰り返して「さとり」をひらき、永遠に滅びることのない心境を開くよう努力すべきである。
道心門
ウッドバッジ研修所や実修所に入所するときにくぐる、野営場の入口に作られた自然の樹木で作られた門のこと。入所に当たって、ここで入所者全員が所長の前でおごそかに入門の心構えを確認する。
1925 年(大正 14 年)日本で初めて指導者訓練所(後の実修所)が開設され、所長佐野常羽はこの道心門の前で入所者に対して次のようなちかいをさせた。
一、この門より中の野営地は、少年団の道を極め、共に修行する道場である。
一、この門をくぐるに当たっては、この門の外に、現在までの社会的地位、職業、年齢等をおいて、14 ~ 15 才の少年になること。
一、入所中はいっさい批判を行わず、素直にすべての行事、講話を受け入れ、もし批判のある場合は、実修が終わってから行うこと。
一、全期間を野営で行い、すべて自営自活すること。
以上のことを守る自信のあるものはこの門をくぐるように、もし自信がないものはこの場から帰ってもらいたい。
入所者は、この宣誓をして門をくぐり、広場で入所式を行った。
佐野常民(佐野常羽の父・1823年~1902年)
父 下村充贇(佐賀藩士)
養父 佐野常徴(藩医)
妻 佐野駒子(山領圓左衛門眞武の娘・佐野家の養女)
子 佐野常羽
<佐野常民記念館ホームページ より抜粋>
佐賀の七賢人の一人、佐野常民は、1822年に佐賀藩士下村充贇の五男として佐賀市川副町早津江に生まれました。9歳の時、藩医佐野家の養子となり藩校弘道館では学才を発揮、その後、大坂や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となって蘭学、医学などの学識を広めました。
31歳の時に佐賀藩精煉方主任となり、さまざまな理化学研究の指揮をとり、蒸気船・蒸気車の雛形、電信機の製作を行いました。
1855年からは幕府の長崎海軍伝習所で航海、造船術を学び、3年後、郷里の三重津に佐賀藩海軍所を置いて伝習を開始。この地で日本初の実用蒸気船「凌風丸」などを完成させました。また、1867年のパリ万国博覧会には佐賀藩の団長として、6年後のウィーン万国博覧会には博覧会事務副総裁として渡欧。西欧の先進的な知識・技術・思想の見聞・習得に努め、同時に、各国に赤十字社が組織されていることを知りました。
1877年の西南の役で、その惨状に心を痛めた彼は博愛社を創設、敵味方の区別なく負傷者を救護しました。これが日本における赤十字事業のはじまりです。10年後、博愛社は日本赤十字社となり、常民は初代社長に就任しました。大蔵卿、元老院議長など、政府の要職を歴任する一方で、工部大丞兼燈台頭として洋式燈台の建設、内国勧業博覧会による伝統美術・工芸の発掘、日本美術協会の前身「龍池会」の会頭として芸術家の保護・育成に力を尽くすなど、常民はマルチ人間として、近代日本の形成過程において数々の偉大な足跡を残し、幕末から明治の時代を駆け抜けていきました。